絶対に感動する「泣きながら生きて」という作品
皆さん、テレビや映画を観て泣いたりしますか?
今回は自分が過去にガチで泣いた作品の1つを紹介したいと思います。
2006年に地上波で放送され、2009年に全国で劇場公開された「泣きながら生きて」というドキュメンタリー作品です!
この作品は毛沢東の下方政策により人生を翻弄された一人の中国人男性「丁尚彪(ていしょうひょう)」と、その家族を追いかけたものです。
そもそも下方政策とは、都会の子供たちは農民に学ぶべき(働かなければならない)という名目で1966年頃〜1978年にかけて約1600万の中学卒業生が農村や辺境に追放され徴農された政策になります。
対象者は学びたくても学ぶことのできない不遇の扱いを受けた訳です。
丁さんもその内の一人で、1970年から最も貧しい地域で暮らすことになります。
やせ細った土地には作物が実らず人々は物乞いをしながら生活をしているような地域でした。
食料も乏しい状態で、1日10時間もの労働を強いられていたのです。
そんな中、丁さんは一人の女性と巡り合います。
丁さんと同じく上海から下方された女性で、貧しい環境下でも明るく元気に生きていました。
激動の時代の中で二人は結婚し、苦しい時にこそ助け合って生きて行こうと誓い合ったのです。
やがて下方政策の時代も終わり、丁さん夫婦は上海に戻ります。
娘さんも授かり、幸せと小さいながらも希望が訪れるのです。
しかし、大事な時期に教育を受けられなかった影響のためか、決して豊かとは言えない生活を送っていました。
このままでは生活が豊かにならないと考え、数人の知り合いに借金して1989年(平成元年)日本の大学への入学を目指し語学留学のため、彼が35歳の時に一人で来日します。
上海に妻と娘を残し、言わば人生の再出発を目指した訳です...!
語学留学先は過疎化が進む北海道東部阿寒町(現在は釧路市)でした。
画像提供:pixabay
来日するにあたり知り合いに借金をしていたため、返金と日本語の勉強の両立を強いられます。
しかし、阿寒町は過疎化が進む地域のため仕事がありませんでした...
このままでは豊かな生活はもちろん、知り合いへの借金返済も困難です...
丁さんは考えた抜いた結果、日本語学校を飛び出す決意をします。
そして仕事を求め東京に辿り着くのです。
丁さんは独学で日本語を学び、仕事に困らないようにフォークリフト運転者やクレーン運転士等の資格を取得し日本で得た収入の殆どを家族に送金し続けます。
東京で幾つもの仕事を掛け持ちしながら、早朝から深夜まで家族のために身を粉にして働いていたのですが、語学学校の生徒ではなくなった丁さんにビザの更新は認められず、不法滞在の身となってしまいます...
丁さんの暮らしは、お風呂も無い安いアパートを借り、来日後一度も家族の元には帰らず最低限必要なお金だけで生活を続けます。
一方、丁さんの奥さんは中国で働き、送金されたお金には手をつけず娘さんの大学留学資金のために貯金を続けるのです。
時は流れ1997年2月、丁さんを追いかけ続けているスタッフは丁さんの家族が住む上海の下町に訪れ、丁さんが日本で暮らしている姿を映した映像を渡します。
この時、娘さんは17歳。
スタッフから渡された映像で約8年ぶりに父親の姿を見ることになるのですが、父親が日本でどれだけ苦労し家族のことを思っているのかを知り、父親の愛情と申し訳ない気持ちで号泣します...
母親も子育てと仕事の忙しさから寂しさを紛らわしながら生活していましたが夫の姿に涙します。
丁さんの生きがいは「夢」のバトンを娘に渡すこと。
娘さんは父親の夢に応えるようにアメリカへ渡り医者になる夢を持っていました。
努力の末、1997年にアメリカを代表する名門ニューヨーク州立大学に合格する訳です!!
アメリカへ留学する=中国を去る訳で、母親との別れの日が近づいてきました。
出発前日、二人はレストランで食事をします。
母親は娘さんが一人で生活できるか心配していましたが、娘さんは「私を信じてください 心配しなくても大丈夫です」と心強い言葉を送りました。
とても逞しい娘さんです!
そして出発の日...
8年前に夫を見送った場所から再び娘さんを見送ることになる奥さんは、娘さんが去った後も涙が止まりません...
いやぁ...相当辛いでしょうね...
娘さんが乗った飛行機は東京経由ニューヨーク行き✈️東京での24時間のトランジットを利用し父と8年ぶりに再会します。
積もる話もあるでしょうが、なんせ8年ぶりなので見ている側の感想は何となく会話がぎこちないように見えました。
楽しい時間はあっという間に過ぎ、娘さんがニューヨークへ旅立つ時が訪れます。
丁さんは不法滞在のため身分証の提示が求められる成田空港までは行くことができず、直前の成田駅までしか娘さんを見送ることができません。
成田駅に到着しようとする時、父親は思わず涙し、それを見た娘さんも貰い泣きしてしまいます。
一人電車に残った娘さんは涙をこらえながらも止めることができません。
そりゃそうですよね...
娘さん曰く
「8年間もお父さんに会ってなかったので親しくできないと思っていました」
「でも、たった10時間だったけど...やっぱりお父さんでした」と...
口には出さないけど改めて父親の愛情を感じたんだと思います。
父親は学費を稼ぐため中国には帰らず日本で働き続ける決断をします。
娘さんは両親への恩返しを心に強く決めます。
更に時は流れ、5年後の2002年
母親はニューヨークの娘さんの元を訪れるため東京経由で渡米する計画を立てます。
※12回目の申請でやっとビザが降りました...
最大72時間のトランジットを利用し夫婦が13年ぶりに再会したのです!!!
そして、再開した時の二人の笑顔が素晴らしい!!
夫から妻へ
「10数年間本当に苦労をかけた ありがとう」の言葉で、今まで張りつめていた糸が切れたのか妻は涙します...
二人の楽しい時間はあっという間に過ぎ、再び別れの時が訪れます。
今回も成田駅までの見送りしかできず、一人電車に残った妻は涙をこらえながらも止めることができません。
5年前の娘さんの時と同じですね...
妻は日本に滞在し続ける夫を疑っていたようですが、13年ぶりに再会しその誤解が解けたようです。
その2年後の2004年、丁さんは中国へ帰国することを決意します。
アメリカに留学している娘さんが間もなく医者になるまで成長したからです。
自分の役割を終え中国へ帰る直前、日本での暮らしをスタートした阿寒町を訪れます。
東京で暮らすようになってからも阿寒町のことを忘れたことはなかったようで、日本を去る最後の思い出に最初の町を訪れたいと思ったのです。
丁さんは廃校になった日本語学校を訪れ当時を振り返りながらこう言います。
「当時は借金で大変でした」
「でも、15年経った今...心から学校に感謝しています。」
「学校に、阿寒町の人々に申し訳なかったです...」
「せっかく私たちを受け入れてくれたのに」
「でも、あの時は本当に仕方がなかった」
「どうしてもやっていけなかったのです」
阿寒町で日本の生活をスタートした時、人生は哀しく人間は弱いものだと思っていたと語り、続けて「しかし、人生は捨てたもんじゃない」とも仰っていました。
何の計画性もなく仕事も少ない人里離れた土地に日本語学校を設立した側にも責任があるんですが、そのことを恨む訳でもなく感謝の気持ちを言葉にできるところに人間としての素晴らしさを感じます!
丁さんは成田空港から飛行機に乗り中国へ帰国します。
それは15年住んだ日本に二度と入国できないことも意味します。
飛行機の中で丁さんは涙しながら合掌します...
言葉はなくてもどのような気持ちであるのか察しますね。
背負った運命を嘆くことも、恨み言を言うこともなく、自分を犠牲にしてまで家族の幸せを願い続ける本当に素晴らしい人だと思いました。
娘さんは父から受け取った重いバトンの意味を知っています。
きっと素晴らしい医者になっているでしょう!
作中に出てきた
親が踏み台になって、その上に子供が立てるようにする。それが親の役目なのだと思います。
という言葉にも感銘を受けました。
自分がこの作品を見て良い影響を受けたのは確かです。